Last-modified: 2015-07-30 (木) 10:25:37 (726d)

【児玉源太郎】(こだまげんたろう)

日本の江戸時代末期〜明治時代に活躍した武士・陸軍軍人。(1852生〜1906没)
生涯最終の階級・位階・勲等は陸軍大将、正二位、勲一等、功一級、子爵。
日露戦争において満州軍総参謀長を務め勝利に貢献した。

幼少〜陸軍入隊

1852年(嘉永5年)2月25日、周防国徳山藩(長州藩の支藩)の藩士児玉半九郎の子として生まれる。
5歳のときに父が死去し、その後、義兄の児玉次郎彦に養育された。
しかし義兄の次郎彦は源太郎が13歳のときに佐幕派によって殺害され*1、一家は収入を失い困窮する。

明治元年(1868年)に初陣を果たし、新政府軍の下士官として箱館戦争に参加。
その後、正式に国軍が編成されると将校として入隊し、佐賀の乱において大尉で出動するも、負傷。
その後の神風連の乱では熊本鎮台*2准参謀として手腕を見せる。

そして、熊本鎮台参謀副長(少佐)のときに西南戦争が発生。
熊本鎮台のある熊本城の篭城戦に参加し、参謀長格として鎮台司令官谷干城を補佐、薩摩軍の猛攻撃から熊本城を護る。
これにより一躍その才能を知られ、頭角をあらわすことになる。

智将、児玉

その後、児玉は陸軍大学校の充実に力を注ぎ、ドイツのクレメンス・W・J・メッケル少佐を日本に招き、国軍の将校教育に多大な貢献をした。
1892年(明治25年)に少将として陸軍次官兼陸軍省軍務局長となり、日清戦争では大山巌大将が第二軍の司令官として出征したため、事実上の陸軍大臣として出征軍を支えた。

そして日清戦争に日本が勝ち、台湾が日本の統治下におかれた後、98年には第4代台湾総督に就任。
後藤新平を台湾総督府民政局長(後に民政長官)に登用して台湾の安定化に寄与。
さらに陸相のほか内務大臣や文部大臣を歴任する。

日露戦争

日露開戦直前の1903年、参謀次長の田村怡与造が急死。
参謀本部の大黒柱が急になくなるという騒ぎの中、児玉は大臣という栄職を去り、事実上降格となる参謀次長に自ら志願して就任、対ロシア作戦計画を練り上げる。

戦争では満州軍総司令部が創設されると、大山巌司令官の下で総参謀長に就任。
大山司令官を補佐し、旅順要塞攻防の際には第3軍司令官・乃木希典の指揮権を多少侵す*3も、乃木と共に二百三高地攻防を指揮。
この際、火力集中という要塞攻撃の常道を行うため、恒久据え付けで移動が困難だった「28センチ榴弾砲」を、それまで置かれていた場所からわずか1日で配置転換するという奇抜な作戦を取ったとされるが、実際は、乃木に野戦重砲連隊の一部の配置換えと、203高地後方の砲台への目標変更をアドバイスしたにとどまっている。
しかし、この目標変更こそが、「彼の功績」であった。
そして重砲の射撃のもと、歩兵による突撃を同時に行い、わずか半日で前まで攻めあぐねていた二百三高地の占領を完了する。
そして二百三高地越えに28センチ榴弾砲でロシアの旅順艦隊に砲撃を加え、殲滅。
結果、ロシアのバルチック艦隊は日本の連合艦隊と戦わざるを得なくなり、旅順要塞のロシア軍は二百三高地攻防を境に弱体化、この1ヵ月後、降伏した。

戦費調達では財閥の大物であった渋沢栄一を説得し、対立する薩摩閥の海軍と長州閥の陸軍をまとめ上げ、日露戦争を実質的に指揮した児玉は、明治日本が直面した危機を卓越した戦略眼で乗り越えた名将であった。

その後

日露戦争中の1904年には陸軍大将に昇進、1906年には参謀総長兼南満州鉄道創立委員長に就任。
情報の重要性に着目し、参謀次長に福島安正を起用して陸軍再整備に着手した矢先、就寝中に脳溢血で急逝。
享年55。


*1 次郎彦は家族の面前で殺され、源太郎は死体の処理を冷静にやってのけたという。
*2 後に「歩兵第6師団」となる。
*3 児玉が乃木の指揮権に介入したという資料や記録は、司馬遼太郎の筆になる小説『坂の上の雲』以外には見られず、ストーリー上の演出である可能性が高いという指摘がある。

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