【バトル・オブ・ブリテン】 †
概要 | ||
戦争 | 第二次世界大戦(西部戦線) | |
年月日 | 1940年7月〜1941年5月 | |
場所 | イギリス(ブリテン島)上空 | |
交戦勢力 | ドイツ第三帝国、英国 | |
結果 | イギリス軍の勝利 | |
戦力 | ドイツ軍 | 単座戦闘機1,107機、複座戦闘機357機、爆撃機1,380機、急降下爆撃機428機、 偵察機569機、沿岸哨戒機233機 |
イギリス軍 | 単座戦闘機754機、複座戦闘機149機、爆撃機560機、沿岸哨戒機500機 | |
損害 | ドイツ軍 | 戦闘機873機、爆撃機1,014機 |
イギリス軍 | 戦闘機1,023機、爆撃機524機、民間人死者27,450人、民間人負傷者32,138人 |
第二次世界大戦初頭に行われた、イギリス本土に対するドイツ軍による攻勢対航空作戦及び、イギリス軍による防勢対航空作戦。
ドイツは1940年の5月に開始した電撃戦によってわずか1ヶ月程度でフランスを制圧し、大陸に駐留していたイギリス軍も半ば壊滅させた。
ドイツはこれによりイギリスが講和を求めてくると予想していたが、当時の英国首相ウィンストン・チャーチルが徹底抗戦の意思を示したため、イギリス本土への上陸侵攻を計画した(アシカ作戦)。
この上陸戦を成功させるには航空優勢の掌握が必要と結論づけたドイツは、7月ごろにはドーバー海峡付近を往来するイギリスの船舶に対して攻撃を開始、数に劣るイギリス空軍(RAF)を消耗戦におびき出そうとする作戦に着手した。
イギリスは船舶を犠牲にしてでもこの消耗戦を避けようとしたが、質・量ともに圧倒的なドイツ空軍の前に防戦一方で、8月中旬にはいよいよ本土爆撃を許すまで消耗していた。
ドイツ空軍は、その後も軍事基地や軍需工場などを目標として猛爆撃を加え続け、9月に入る頃にはイギリス空軍は壊滅寸前に陥っていた。
ところが、8月24日にドイツ空軍がロンドンを誤爆、この報復として26日にイギリス空軍が実施した初のベルリン空襲を受け、9月7日以降のドイツは報復として、ロンドンを含む都市部に目標を移した(ザ・ブリッツ)。
しかし、この目標変更によりイギリス空軍は爆撃の及ばない内陸に軍事施設を移設、爆撃を受けなくなった戦闘機工場を最大限稼働するなどにより空軍を建て直し、消耗を回復して抵抗を続けることができた。
一方、ドイツ側は爆撃目標が大陸から遠隔地になるにつれ、戦闘機による護衛もままならなくり次第に損害を増やし、消耗していった。
さらに、これ以上の損耗は次の対ソ戦に影響するとして、ドイツは爆撃作戦を中止、アシカ作戦は無期延期されることとなった。
バトル・オブ・ブリテンはその名の通りイギリスの命運をかけた戦いであり、後にイギリス国防省の戦史にもその名を刻むこととなった。
また、レーダーを使用した近代防空戦闘のさきがけであり、戦後、各国における防空体制の構築に大きな影響を及ぼした。
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